青い目のニコル

とある週末のバー。

そのカウンターに1人腰掛けていたのは、肩ほどまであるミディアムロングの白人女性。

「そこの椅子、空いてるかな?」

僕は彼女の座る隣の椅子を指差した。

「他の席が空いてるのにどうして私の隣なの?」

彼女は少し首を傾けて僕に言う。

「それを説明する前に、君に一杯ご馳走したいんだけどいいかな?」

彼女の表情が微かに和らいだ様に見えた。

「いいわよ。私はニコル。あなたは……?」

今回の舞台となる場所、そこはバンコクから北へ約720kmに位置するタイ北部最大の都市「チェンマイ」

四方を山に囲まれた大自然が広がり、歴史と伝統を受け継ぐ町並みと大自然の見事な調和が魅力とされるその美しさを人は「北方のバラ」と呼ぶ。

そんな魅惑の都で起こった一夜のハプニング……

僕はこの時、タイのチェンマイへタイマッサージの勉強とバケーションを兼ねて2ヵ月間滞在していた。

昼間はマッサージの勉強をし、夜になれば遊びに繰り出すわけだが、そんな充実したチェンマイの生活を送っている中で、僕はその人に出逢ってしまった。

彼女の名前はニコル。

出身はドイツ。

全く混じりっ気のないナチュラルなブロンドの髪に大きく見開いたブルーの瞳と透ける様な白い肌。

それはまるで北欧系ゲルマン人に多く見られる特徴をそのまま表現したかの様だった。

ここ、タイのチェンマイは世界中から旅行者達が訪れる東南アジア屈指の観光地でもある。

友人同士や家族連れで訪れたり、バックパック一つで世界中を旅するバックパッカーと呼ばれる人達も多く存在する。

中には、そんなタイの魅力に魅せられそのまま移住を決意してしまうという人も珍しくない。

実際タイには世界中から多くの外資系の会社が進出しており、これが20年前ならいざ知らず、インターネットが当たり前のこの時代、もはやタイへ移住する事だけで言えばそこまでハードルは高くないと言えるのかもしれない。

僕もこの2ヵ月間、タイでのらりくらりと生活してみたが、そりゃもう元の生活に戻る事、それ自体が世界の終わりと定義されてもおかしくないという感覚を持たされてしまう。

これほどまでに居心地が良く、ストレスフリーな国が他にあるだろうか?

そして彼女もまた、この微笑みの国に魅了され、遠路遥々ヨーロッパから移住してきたその一人なのだろう。

そんな共通の価値観を持った僕とニコルが意気投合するのにそれ程時間は掛からなかった。

しかしそれはあくまでお友達としての話……

だがこの時すでに、僕はニコルとの間に男と女のラブゲームに突入する為の雰囲気作りは完成されていると思っていた。

大人の甘みを存分に含んだ一杯のカクテル……

そこに小洒落たジャズを一曲添えれば、南国の夜はひと際ムーディーな演出を醸し出してくれる。

間違ってもここでチューブの「あー夏休み」などセレクトしてはならない。

もしもそんな事をすれば、チューブ前田の爽快な歌声とともに一瞬でその場のムードが崩れ去っていくのは言うまでもない。

そしてここから先が僕にとって大きな勝負所。

それは言わずと知れたこのランデブーを忘れられない夜の思い出へと昇華させる事!

その為には彼女が僕を「異性として受け入れる気があるのかどうか」をまず確かめる必要がある。

もちろんそんな事「ねぇ、僕の事どう思ってるの?」なんてアホ面下げて尋ねるわけにはいかない。

相手が自分に好意があるとあからさまに主張してくれれば問題ないのだが、男性諸君が頭の中で思い描いている手前勝手な想像通りには99%ならない。

では一体どうやって確かめればいいのか?

表情?しぐさ?会話の内容?

これらからでもある程度相手の気持ちを推測する事はできるだろう。

しかし容易に手っ取り早く知る方法、それは……

「相手の体にちょくせつ触れてみる」

と言うとイヤらしく聞こえてしまうかもしれないが、局部を触れと言っているわけではない。

会話の中でさりげなく腕や肩に少し触れてみるだけでいい。

理想を言えば5秒間。

もし相手が自分に対して生理的に拒否している状態であれば、触れた瞬間に相手の体が無意識に拒否反応を示す。

一度で感覚を掴めなければ、相手の気分を害さない程度に何回か触れてみても良いだろう。

相手が自分を拒否している状態であれば、触れた瞬間に体が少し引き気味になる、力む、など 何かしらの反応があるはず。

そして5秒間触れ続ける事で相手の体から拒否反応を感じなければそれは相手が自分に対してリラックスしている状態であるという一つの目安になる。

焦ってはいけない。

考えてもいけない。

平常心を保ちつつ、あとは自分の感性に委ねるだけでいいのだ。

それから僕はやさしく彼女の二の腕にそっと自分の手を触れさせてみた……

ニコルの温かい体温と柔らかな肌の感触が手のひら一面に伝わってくる。

このまま力任せに彼女を 引き寄せたいという衝動を抑えながら、1秒、2秒と時がカウントされていく。

「理想の5秒」

それはまるで大好きなあの人に自分の想いを打ち明けた瞬間、そしてその返答を待つあの緊張感によく似ていた。

そしてその5秒が経過したのと同時に「パパパパーン、パパパパーン!」

と「欽ちゃんの仮装大賞」の合格ラインに達した時の、何十年も変わらないあの効果音が頭の中で響き渡る。

それは僕の期待が確信へと変わっていった瞬間だった。

僕の手はまだニコルの柔らかな二の腕を優しく掴んだまま離されていない。

「今夜このあと何か予定ある?」

僕は彼女に尋ねてみた。

「特に何もないけど……ねぇ、マッサージできるんでしょ? 私にしてくれない?」

ニコルの大きな瞳がさらに大きく見開いて僕を覗き込んだ。

「それはいいけど、何処でやる?」

僕は普段「英語が喋れます」と自己紹介をすると「教えて〜!」と言われる事がままあるのだが、それを言う人の多くはあまりよくものを考えて喋っていない様に感じる。

その証拠に「理由は?」「英語の何がどう分からないの?」と聞くと具体案が返って来ない。

僕は英語の先生ではないし、人様に教鞭を執れるほど完璧に英語を扱えるわけじゃないが、それでも自分の分かる範囲でならしてあげれる事もある。

マッサージにしても同様に「いつ?」「どこで?」と提示しても殆どの場合その先が返ってこない。

かくいうこの僕も、普段から人にテキトーな軽口ばかり言っているのでここで偉そうに 人を非難する資格など無いのだが、もしこれを読んで少しでも自分に心当たりがあるかなと疑問に思ったそこのあなた!

言ったからにはもう少し実行する努力をしてみましょう!

そしてそんな僕の経験から彼女もまた、その場の流れでただ口をついて言ってしまったのかと思った。

しかしそんな彼女の返答は……

「あなたの部屋でいいんじゃない?」

と、まさかの一言。

「僕は構わないけど、君は今日初めて会った男の部屋に来る事に抵抗はないのかい?」

しばらくニコルは黙りこみ、そして……

「セックスはしないわよ?」

これと全く同じセリフと似たようなシチュエーションに遭遇した事が過去に何度かあるのだが、時計の針も深夜の12時を過ぎようとしているこの時間帯に、男女が密室で二人きりになって何も起こらないわけがない!

と通常ならそう思うかもしれないが、僕の経験上、様々な国の人達と様々な関係を築いていくと我々日本人の常識からみた「通常」という概念がひっくり返される事など当たり前にある。

悲しきかな実際にそれで何も起こらなかった事や拒否された経験が過去にある。

駆け引きの意味であえて本心とは逆の気持ちを口にするのは女性に多く見られる傾向にあるのかもしれないが、グローバルな社会で生きているニコルの様なタイプは本心をありのまま曝け出すケースも珍しくない。

これが日本であれば一般的に「女性が男性の部屋へ行くという事は契りを交わす覚悟で臨むべし」

といった具合に女性も体を許す覚悟を決める事になるのかもしれないが、何せここは海外。

世界地図で確認してもらえば分かる様に日本の国土は非常に小さい。

その世界地図が示している日本の小さな国土は我々日本人の常識の狭さをそのまま表している様なものである。

海外には多種多様な人種や考え方、価値観や倫理観が計り知れないくらい存在している。

個人的主観もあるが日本人の多くは固定観念に縛られて生きているという印象が非常に強い。

自己主張よりも周りと歩調を合わせる事に重きを置き、それが常識であり正しい生き方だと子供の頃からそう教育を受けて育ってきた。

もしもそこから一歩でも外れれば待っているのは周りからの干渉。

その何処から持ち出してきたのか分からない「常識」という固定観念の下に人は「それは違う」と口を挟んでくる。

その結果「常識」という道標のない新しい事への挑戦が「希望」ではなくただの「不安」にしかならなくなってしまう。

今まで当たり前だと思っていた常識を、固定観念という呪縛を解かなければ、自分の常識外の物事に出くわした時にそこで歩みが止まってしまうのだ。

そこに大きな可能性があるという事に気付くことなく……

そう、だからまずは自分の常識を疑う所から入らなければならない。

でなければその一歩先へは進めない。

「セックスはしないわよ?」

と愛らしい含み笑いを見せた彼女の言葉をどう捉えるか……

これでもそこそこ自負ある。

思えば27歳の頃から今日までの7年間。

様々な土地で様々な人種と様々な関わり方をしてきた。

凡そ 日本で生活していれば出会う事はなかったであろう経験も数知れない。

様々なタイプの人達や人種と関わり合う事で洞察力もそれなりに養われているつもりだ。

論理的思考よりも直感に従う方が吉とでる事も多々あると数々の経験から学んできた。

そう、そんな僕の「直感」が今ここで言っている。

「全く分かりません!」と。

となれば後はなるようにしかならない。

YESと言っているのだからとりあえず彼女を部屋へ連れていってみよう。

見つからない答えを考え続けても仕方ないのだから……

そして僕は彼女に一言告げた。

「君の気持ちを尊重するよ」

それから僕はニコルを部屋へ招待した……

彼女を部屋へ迎え入れてから僕達はしばらく雑談に耽っていた。

互いの国の文化や生活習慣、そして恋愛観など様々な話題で僕らは盛り上がった。

ベルリンの壁崩壊前はどっち側に住んでたの?とか。

ニコルのおじいちゃんは第二次世界大戦中どこの国と戦ってたの?とか。

もしドイツの街中でヒトラーの恰好してナチスの旗を小一時間掲げてたらどうなるの?とか。

余談だが、かの有名な時の独裁者「アドルフ・ヒトラー」に関する話は「ドイツ人にとって禁句」だという話を耳にした事があるのだが実際の所どうなのか、無礼を承知で友人のドイツ人達にその話をしてみると、4人中3人は特に嫌がる素振りもなく普通に話してくれたが1人だけ「その話はやめてくれ」という結果で終わった。

無論彼らは僕の親しい友人だったからこの試みを行えたわけで、さすがの僕も見知らぬドイツ人に「ヒトラーの話しようよ!」なんてぶっきらぼうに尋ねられるわけがない。

ではニコルの場合はどうだろう?

彼女曰く、人差し指と中指を鼻の下に当ててナチス式敬礼をしながら「ハイルヒトラー!」というおふざけを友人達としていた事はあるが、さすがに大衆の面前でこのギャグは出来ないと話していた。

また、2015年に「帰ってきたヒトラー」(日本では2016年に公開) という、1945年の第二次世界大戦で死んだと思われていたヒトラーが現代にタイムスリップしてしまい大騒動を巻き起こすという前代未聞のコメディー映画がドイツで公開されヒットを記録している。

しかしながらヒトラーと言えば誰もが連想するであろう600万人以上のユダヤ人が犠牲になったと言われているナチスの大量虐殺。

この暗い歴史は忘れられるものではないし、決して忘れてはいけないものである。

第二次世界大戦終結から約70年経った現在、その今と昔とでは世代が変わってゆくにつれ、それらに対するモラルも少しづつ変化してきているのかもしれない……

大分余談が長くなりましたが、まぁそんな具合に僕の質問の大半は彼女の国の歴史的背景やタブーについての事ばかりだったのだがお喋りの時間は凄く充実したものとなった。

そしてその会話の中でニコルが僕の生まれた場所について尋ねてきたので、携帯でGoogleマップを開いて説明する事にした……

二人寝転んでも十分広さに余裕のあるキングサイズの大きなベッド。

その上で僕らは少し距離を保ちつつ寝転がっていた。

「ココだよ」と携帯のディスプレイを傾けて彼女に見せるとニコルはグッと僕に寄り添う様に体を近づけてきた。

保たれていたニコルとの距離がその一瞬でゼロになる。

その大胆なニコルの行動にちょっぴり驚いたが、平常心を装いつつ僕は彼女に言った。

「君がセックスはしないっていうから気を使って距離を置いていたんだけどね」

携帯のディスプレイから僕へと視線を移すニコルの大きな青い瞳。

彼女の吐息の暖かさが僕の頬まで届くに十分なその距離でニコルは一言囁いた。

「もし私がしたいって言ったら?」

もはや彼女を抱き寄せるのに躊躇する理由が他にあるだろうか。

そして無言のまま、磁石の如く吸い寄せられるようにお互いの唇が引きつけられていく。

柔らかくて暖かい彼女の唇の感触から湧き起こる

欲情は執拗なまでに加速していった。

大人しく抱擁し合っていただけの2人の身体はうねるようにして絡みつき、そして激しく求め合うようにして情熱的な南国の夜へ溶けていった……

東南アジア最大の観光地「タイ」

そこには世界各地から「非日常」を求めて数多くの人が後を絶たない。

亜熱帯という赤道直下の特殊な気候が、その場所に訪れた人々の気分を高揚させ、そしてどこまでも開放的にさせてくれる。

もしも、そんな状況下で男女が2人出逢ってしまったとしたら。

その先を語る必要などもはや何処にもないだろう……

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